今しかない創り出す機会

大学時代には色々なものをゴチャゴチャと創っていた。サークル名義でもアナログゲームや文芸やら毎年出産した。創っただけでなく幸いにも数百人程度に数時間の慰みをもたらし、それらに対して小銭とは言い切れない程度の金額も支払ってもらった。

創り出したものは荒削りで未熟なものがほとんどだ。それでも、自分は作品のいくつかを今でも気に入っている。今からまた同じようなものを創り出せるだろうか。きっと無理だろう。どの作品もその時期のその場所でしか創り出せなかった。特に表現の分野に入る創作はすべてそうだ。

今だ、今やれ

定年退職したら〇〇を創ろうと思う、上手くなったら本格的にやろうと思う。そういった類の言葉がしばしば人から飛び出す。言うまでもなく無意味である。対する返しは常だって「今だ、今やれ」だ。

小説、絵、ゲーム、俳句、音楽、創りたいものが何であったとしても、いま創り出せるものは今後一生作り出す機会がない。創作は感情や閃き、衝動の発露だ。まず伝えたいこと、表現したいこと、創りたいものが先に在る。

伝えたいことも表現したいこともないのに創作すると確実にゴミが生産される。小学生に無理やり書かせた作文よろしく、字数を稼ぐために僅かな内容物をひたすら薄めたものが出来上がる。伝えたい・表現したい衝動は結晶の核だ。創作者は伝えるのが上手い人間ではなく、伝えたいことが存在する人間なのだ。

衝動は貯蓄することが出来ない、揮発性の何かだ。嬉しかったことも、悲しかったことも、血が逆流するような思いも数時間で忘れ始める。サランラップで包んで冷蔵庫にしまっておけはしない。

逆説的だが過去の自分も、そして未来の自分も他人である。感覚を共有しない、心の通じない人間だ。我々は過去の自分自身について正確に思い出せず、未来の自分自身について十分に想像出来ない。夏休みの最後になってから価値のある絵日記を書くことは出来ないのだ。

自分自身の保存

今すぐやれ、という言説は一見するとすべきことを先送りにしてやらないことを責めるように聞こえる。だがそれだけではない。創り出す唯一無二の機会を失い続けているという点が惜しい。

未熟なものでも当時の自分が全力で創ったものは後々になっても愛おしく感じる。創作表現は今の自分を切り取り保存する一つの手段である。作者は変わっていくが作品は不変であり、当時の情熱と感情を表現し続ける。

なぜ中学生は未来の自分に手紙を書け、と言われて「いまどうしているか?」などと問いかけるのだろう。今どうしているのかは未来の自分が知っている。未来の自分から返事が来るとでも思っているのか?

いま自分が何に情熱を注ぎ、何に悩んで胃を痛めているのかを表現しろ。その時の自分なりの答えを書け。そして、未来において読み返し自身の内面世界が諸行無常であることを感じろ。そのために今始めろ。

死んでしまった趣味の墓

創作が趣味の人間にとって一つの恐怖は、情熱が尽きることである。「自分は創作が趣味だ、もっと○○を創りたい!」という意識だけが残る、生み出すアウトプットは徐々に少なくなり遂には何も創れなくなる。いや、創らなくなる。

日常の雑事に忙殺された訳でもなく、批判に心が折られた訳でもなく、思い描いていた目標を達成した訳でもない。単に熱が引いて行く。趣味をやめるきっかけはない、やめたという認識もない。そのため趣味の墓は作られず、新しい趣味が置かれるべき空間を楽しかった趣味の亡霊が占有し続ける。

趣味の亡霊を供養する最も良い方法は新しい趣味の発見だ。一つの趣味を長く続けることに縛られるべきではない。趣味も、住居も、友達も移り行くものであり成長や人生の段階に応じて変化して当然だ。

誰かはそれを電車やバスで乗り合わせた乗客のようなものだと表現した。旅の道連れであり、出会い同行しては別れて行く。

自意識と感覚が剥離したままにしておくと不幸が増える。かつて情熱を向けていた趣味に、今は情熱を持てないと認めなければ人生を毀損する。創作界隈の人間にとって、情熱の喪失を認めるのは辛い作業である。自分たちのような人間にとって趣味は単なる手慰みやストレス解消の方法ではない。自身を構成する重要なパーツだ。

「もしかすると、かつての情熱がまた戻るかもしれない」。そんな期待感が冷たくなった趣味の亡き骸を抱き続けさせるが、早めに埋葬して新しい出会いを求めよう。

人は理由もなく何かを好きになって、また理由もなく興味を失って行く。無理にそれを否定しても自意識と感覚の軋轢は増す一方だ。趣味の墓を建てよう。もし幸運に恵まれれば、いつか墓からゾンビが芽吹くこともあるだろう。

騒々しい無音の世界

この日の最後に向かったのがNTTのICC(インターコミュニケーションセンター)である。この展示施設にはコミュニケーションを題材とした展示物が並んでいる。実際のところ、コミュニケーションというよりはインタラクション(相互作用)とでも呼ぶべきモノが中心だ。鑑賞者と制作者との相互作用を持つアート、といった印象を受けた。

例えば鑑賞者の位置によって姿を変える映像や、手元にあるカードを並び替えることで変化する音楽だ。会場に入ってすぐにあるのは初期の蓄音機のような姿をした展示品で、マイクとスピーカーを兼ねる大きなラッパが木の箱についている。ラッパに向かって音声を吹き込んだ後で箱の横にあるハンドルを回すと録音された音声が再生される。この再生がハンドルを回す速度や向きによって複雑に変化するのを楽しむ。

ICCの中で特に面白い展示の一つが、「無響室」だ。周囲一面に音の音響を殺す材質と構造が施されており、完全に外から音は入らず内側で発生する音も壁や床に吸い込まれて行く。二人同時に体験したがすぐ横にいる人間の声さえも細々としか聞こえない。そして本当に驚くべきことが、その「騒がしさ」だ。完全な無音の部屋であるにも関わらず、気分が悪くなるほど騒がしい。

静かなはずのこの部屋で聞こえてくる音の正体は血流音だという。耳の外とも内とも言えない場所からジンジンと鳴り響くこの音は日常ではほとんど聞いたことがない。静かなところで指を耳に入れて音を遮断すればこれに近い血流音が味わえる、奇妙なことに耳を塞いでいるはずが塞いでいない時よりも騒がしい。

芭蕉が詠んだ「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という句は一見すると妙な話で、蝉が煩く鳴いているのが静かに思える訳がない。しかし、無響室での体験はそれに近いことを教えてくれる。本当の静けさとは無音の中にはないのだ。

実験音楽家であるジョン・ケージはこの無響室をハーバード大学で体験し、自分自身が生きている限り音が発生し完全な無音などないと理解した経験からある一つの曲を創り出したという。言うまでもなく無音の楽譜、「四分三十三秒」だ。

 

(夏に都内を歩き回った際の手記から一部を抜粋・編集)

記録されない99%の時間

人は日常を記録しない。記録するものの多くは小さなハレだ。誰かと旅行をした、誕生日を祝った、ちょっと良い店へ行った。そうした時に人は写真を撮り、ツイッターで呟き、Facebookに投稿する。しかしハレの時間は割合で言えば僅かに1%程度のものでしかない。

多くの時間を人は自室で過ごしたり職場で過ごすだろう、あるいは学生なら教室だ。人生の大半はこうした決まりきった場所で過ぎて行く。しかし、その人生の大半は記録されない。誰も散らかった自室や職場を撮影してアルバムに挟んだりはしない。

 

こうした日常は過ごした人間にとっては、確かに記録するに足らないものだ。しかし、他人のそれは興味深いものである。『たとえ平凡でも人の人生を見るのはおもしろい』*1のだ。

異なる時代や異なる境遇であれば尚更である。自分の祖父母が残した結婚式の記録や集合写真よりも彼らが過ごした日常の風景、仕事場の方が遥かに興味深いのは自分だけだろうか。

そう考えると、こうして日常の雑事について感じたことや思ったことを書き残して行くのも他人にとって案外面白いものになるかもしれない。例え自分が特別な体験をしているわけではないとしてもだ。

 

(学生時代の日記を冒頭部分だけ要約・編集したもの)

60秒間のために案内を書こう

 やぁみんな。イベントを主催することはあるかな?
どんなイベントでもいい、オープンな会ならね。勉強会やゲーム会…えーと、あと何かあったっけ? ともあれ、そういったイベントを催すにあたって1つ注意したいことがある。これを気をつけるだけで不幸なアクシデントが減るんだ。それが「60秒間のために案内を書こう」という知見だ。

 どういうことか? みんながイベントを催す時に描いてくれる地図はデカすぎるってことだ。きっと多くの人は会場がどんな場所にあるかの地図を描いてくれたり、最寄り駅や駅から徒歩で何分かを書いてくれるだろう。ありがとう、それは重要な情報だ。でももっと重要な情報があるんだ。それが「建物まで来たらどうすべきか」だ、つまり言い換えれば素敵なイベントに参加する直前の60秒間ってわけ。

 そんなものが重要とは思えないかもしれない。でもこんな経験はない? めちゃ高いビルの会場まで無事に辿り着いたけど、実際の会場がどのフロアでどの部屋なのかよくわからない。この建物、一体どこが入り口なんだ? 7階まで行くエレベーターに乗るにはどこへ行けばいいんだ? まず受付をすればいいのかな? オーケー、会場には無事に入ったぞ。で、この数十人の中の誰が主催者なんだ?

 知り合いもいないイベントに、ちょっとだけ興味があって覗きに行った何人かは時間を無駄にして居心地悪げに去る。自分たち主催者は参加者が少なくて寂しい。不幸だ。

 GPSとグーグルマップ先生のお告げにより我々の社会から道に迷うという不幸は取り除かれた。正確な建物の名前さえ知っていれば例え一度も行ったことがない外国の土地だって無事に辿り着くことが出来る。はっきり言えば、建物の正確な名前さえあれば地理的な情報は十分だ。必要なのは、その建物への入り方、建物の中での場所、到着したらどうすればいいかだ。残念ながらグーグル先生でさえ建物内の進み方は教えてくれない。今はまだね。

 もちろん、催すのが身内だけでツイッターやLINEで連絡が取れるならこの話は杞憂だ。だけど、今まで会ったことがないような人たちをイベントへ招きたいなら60秒間のために情報や準備を少しだけすれば不幸が減る。建物の写真を入れるとか、会場の前に札をつけておくとか、建物に入った後の簡単な案内を入れておくとか。少なくとも会場のおおざっぱな地図より誰かの時間を節約してくれる。