ダラダラした時間からの贈り物

 夏期休暇を終えて大学にしぶしぶ戻ると、顔を合わせた友達からは良く「有意義に過ごせたらしいね」と声をかけられた。休暇中に参加したイベントなどについてたまにfacebookで簡単に報告していたからだ。確かに休暇中は忙しく動き、インターンハッカソンを始めそこから派生したLT会や有志のプロジェクトにも参加した。特に9月中はそれこそ寝る時間も休む日もないほどだった。それらは有意義だったか? 基本的に「YES」だ。しかし、その「有意義な時間」は明らかに自分が持つ重要なモノのいくつかを損なった

 『有意義』の代償

  夏期休暇を終えた直後、自分は以前なら当然あるはずのものがここ2ヶ月ほどなくなっていることに気が付いた。インプットから生まれるアウトプット、要は閃きのような何かだ。インプットがなかったはずはない、むしろ普段よりも多くの情報や考え方に触れてきたはずだった。アウトプットする機会を失っていた訳でもない。失ったのはインプットを整理し発展させる時間だ。

 休暇中どころかその後しばらくの間、忙しさかあるいは社交に時間と頭を使いすぎたせいか、手に入れた情報を元に深く考えることが出来なくなっていた。そしてそれは自分にとっては「創作する能力」を失うことに繋がる。ここで言う「考え」というのは「自分と違う意見が聞けてなるほどと思った」程度のことではなく、そこを始点にして他の情報と組み合わせて考えて生まれる成果物の話だ。例えるなら

A.「日本とは食器の種類が違うことに気づき文化の差を感じました」
B.「西洋でナイフやフォークが発達したのは肉食文化のためで、フォークは肉を切り分ける際に固定する二股の道具に起源を持つ。アジアでも肉食はあるが代わりに箸が用いられる、これは調理の段階で一口サイズに切り分けられるためである。それらの文化の中間のような、肉食が盛んな東アジアの遊牧民の文化では、箸入れが付いたナイフ鞘というユニークな食器も存在する。中国を中心として箸が用いられるようになった経緯には厨房で使われる道具が食卓に出ることを嫌う思想があり、利便性や必要性からではないのが西洋とは対照的で興味深い」

 くらいの差がある。そしてBのレベルを考えるには暇で孤独な時間が必要だったのだ、仮にこの時間を豊かな時間と呼ぼう。四六時中誰かと行動を共にしてひたすら何かを話している生活では難しい。一人でぼんやりと散歩したり、図書館で本と外の風景を交互に眺めたりといった豊かな時間はどうしても必要だ。

トレードオフ

 「有意義な時間」は友達を増やしてくれたり、チャンスを作ってくれるかもしれない。しかし、ポールグレアムがエッセイで書いたように「人気者になれるのと引き換えにアホの子になるなら絶対に拒否する」人は少なくない。

 何かしようとするとき、我々は必ず何かを失っている。いままで気づかぬ内に、豊かな時間から自分は大切な贈り物を受け取り続けていた。創作のアイディア、表現したい考え、自身への理解など様々な面においてだ。

 少し前まで、自分は社交性というのは単なる能力の問題なのだろうと思っていた。社交性を身につければ単純にQoLが結構上がるんじゃないかと。実際には様々なこととのトレードオフだった。自分が割り振れるリソースはほぼ一定でそれを社交や創作、内向に対して如何に振り分けるかという意思決定の問題らしい。

 意思決定においても、「しないことを決める」のは重要で難しい。だがスケジュールは常に余白を残しておかなければならない。これは二つの理由からだ、不意に来る機会をキャッチするため。そして豊かな時間を守るためだ。

豊かな時間を守る

 外向的な人々が口々に「旅行をしろ」「学生のうちに遊べ」「サークルに入れ」「バイトしろ」と言うのを真に受け、その通りに行動する優等生である必要はない。豊かな時間を守る、これが自分にとっての教訓である。

 もっとも、豊かな時間から何かしらの恩恵を受け取れるかは完全に各個人に依存する。それに比べればサークルやアルバイトは誰にとってもいくらかの意義を持つ。それを考えれば他人に対して無責任に「何もしない時間を持て」とはとても言えない。