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ゲームの"読み"、日常の"読み"

アナログゲーム コラム/エッセイ

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ゲームの「読み」

ボードゲームの中でも特に好きなジャンルの一つが、読み合いのゲームだ。そして数少ない本当に対面でやる意義があるジャンルでもある。

相手が何を考えているかを推測し不確実な中で選択肢を選ぶ。あやつり人形、ポーカー、ガイスター…、読み合いゲーはボードゲームの女王だ。

 日常の「読み」

日常の中にも「読み」は存在する。観察と推理の間に生まれる子供だ。

そもそも「読み」とはなんだ? ここでは目の前のことを観察し自分の情報で推理し「有力な仮説」を思いつく技術と表現しよう。

 

さて、ゲームと日常の「読み」には大きな違いが二つある。一つはゲームでは推理が重要であり、日常では観察が重要となる点だ。

まずゲームにおいて推理が重要であるのは、ゲームデザイン上の意図からだ。推理自体が非常に楽しいものであり、ゲームデザイナーは優れた推理に報酬を与えるのである。

日常においては観察の方が遥かに重要である。理由はいくつかある、一つは日常はゲームと異なり要素が多すぎて推理が難しいからだ。仮説が多すぎて収束しない、つまり盤面が広すぎる。

 

なによりも、身も蓋もない表現をすると、日常生活での推理はキモいからだ。人は観察されるのはまだしも、推理されるのは原則として不快だ。

観察により「あ、この女の子は機嫌が悪いな」と察するのは良い。その理由を勝手に掘り下げて推理し始めると暗黒面に落ちる。それによって起こる反応を端的に表現すると「キモい」になる。英語で言うとcreepy。

 

もし、仮に日常において「読み」をするなら、踏み込むような推理は避けなければならない。それは頻繁に失敗するし、誰もそれを望んでない。

周囲の人間は対戦相手ではない。問題があるのではと思ったなら聞け、もし答えてもらえないなら踏み込むな。

「読み」の先にあるもの

 ゲームと日常の「読み」には違いが二つあると言った。一つは観察と推理の配分、そしてもう一つが「打つべき手の不透明さ」だ。じゃんけんで相手がグーを出すとわかったら何を出せばいい? パーだ。これがゲームの世界である。

よく出来たゲームは「読み」に対する報酬が絶妙だ。良いゲームは「読み」の先がある。ポーカーで相手の手を読み切ったらどうすればいい? ガイスターで相手の駒がわかったらどう詰めばいい?

こういった質問にベストを答えるのが非常に難しいが、ベターを答えるのは非常に容易だ。相手よりもずっと弱いハンドなら降りれば良い。悪いゴーストを全部取ってはいけない。ゲーム上でそうデザインされているからだ。

さて、日常ではどうか。打つべき手はデザインされてない。どうやら目の前の人間は苛立っているらしいぞ? その理由を手持ちの情報から読むに彼は家庭に問題を抱えていて、かつ今朝は雨で電車が遅延したからだ。まったく完璧な読みだぜ…。んで、何をすればいい?

これは先に書いた日常における観察の強さにも通じるが、日常は割と対症療法で通用する。相手が怒っているなら落ち着かせれば良い、髪を切ったなら褒めれば良い。そこに何故か?までは必須でない。咎められるのは見落としと見過ごしだけである。

ABCポーカー

故に、日常の「読み」で重要になるものがもう一つある。打つべき手の引き出しだ。そして引き出しは推理に頼らない方が好ましい。明快な判断基準と行動指針が最良である。

両面待ちで満貫未満ならリーチせよ。ハンドがAAかKKのプリフロップなら前にどんなレイズが入ってもリレイズで参加せよ。女の子が新しい服を着ていたらコメントせよ。

日常はゲームと比べて長い、何せ24時間だ。なるべく多くのことを型として覚えておくと条件反射で動ける。考えるな。記憶も思考も注意力も、リソースは節約して使うべきところへ使うべし。

 

これまでの話とはやや矛盾するが、観察もやはり不快とされることがある。一部の人には理解されないかもしれないが、例えば一部の男性は自身の外見やファッションに関心を持たれること自体を苦手とする。例え褒めたとしても言及が居心地の悪さを生む。無関心が有用であることもあるというわけだ。あたかも儀礼的無関心のようにである。

こういったように定石に合わない例外的なケースもあるが頻度としては稀である。それに我々は失敗できないような状況に置かれている訳でもなければ、それで飯を食っている訳もない。失敗して学ぼう。